幸村のイメージは?(その2)

By kakizaki, 2014年8月7日


幸村に対するイメージの定番はこんな感じでしょうか。

1600年の関ヶ原の戦いは文字通りの天下分け目の大合戦で、ここで東軍が勝利したことで徳川氏による江戸幕藩体制の下地ができあがり、その後の二百数十年の日本の国内体制が決まった。負けた方の西軍についた多くの武士たちは浪人になったり、百姓になったりして、江戸幕藩体制では陽の目を見ない立場に置かれた。その後、1614年~1615年の大坂の陣で、豊臣氏が滅亡し、江戸幕府の基礎は盤石なものになった。

この2つの大きな戦いで、幸村は活躍する。

関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川秀忠軍2万をわずか2千ほどの兵で信州上田城にて足止めし、秀忠軍を関ヶ原の決戦に間に合わせなかった。これは大金星で、もし関ヶ原で西軍が勝っていたら、幸村は大殊勲賞もので、その後の日本の歴史を決めた立役者になったはずだ。また、大坂の陣では、わずか5千ほどの兵の将に甘んじざるを得なかったが、もし幸村が豊臣方の軍略を掌握し、全軍10万を采配できていたなら徳川方に勝利したかもしれない。そうなれば江戸幕府は存在しなかったかもしれず、歴史は全く違うものになったはずだ。しかし、事実は無情にも、幸村の対徳川の大戦略は豊臣方に受け容れられず、大坂城の籠城戦となり、やむなく幸村は真田丸を拠点に戦うほかなくなり(これだけでも並みの武将ではないのだが)、最期は玉砕的な突撃を敢行して意地を天下に見せて果てた。

つまり、幸村の武将としての能力は群を抜いていただけでなく、日本の今後を決める2つの大合戦で実際に大活躍したのだった。もし関ヶ原か大坂で豊臣方が勝っていたら、幸村は日本の歴史のスーパーヒーローになったはずだ。ただただ運が悪かった。

以上が幸村に対する一般的なイメージでしょうか。

ただ、関ヶ原や大坂で負けた人々が、その後の長い江戸時代を通じて、恨みつらみをどこにもぶつけられず、「ああ幸村があの時に総大将になっていれば俺たちは今こんな境遇にはなっていなかったのに」という無念の想いから、幸村を美化していったのではないかとも思うのです。もちろん、幸村その人に、そう人々に思わせる実績と能力があったからなのでしょうが。

ここまで書いてきて、ふと思い出したのですが、江戸時代、大名たちが庶民よりも先に幸村を持ち上げ始めた、とどこかの本に書いてありました。つまり、関ヶ原や大坂の陣の勝利方であった江戸時代の武士たちが、幸村を褒め称え始めたというのです。

これはどういうことでしょうか?当時の武士たちには、夜、年寄が若者に合戦話を聞かせ、有事の心構えを教える習慣があったと、これもまたどこかで読んだ記憶があります。そうした風潮の中で幸村が全国の武士たちの夜話に登場していたのでしょうか?それとも徳川方につき、信州・松代藩の開祖となった幸村の兄・信之が幸村の武功を称揚し、そのことで真田家の名誉の回復を図ったのでしょうか?

関ヶ原から150年ほど後に、戦国武将の逸話を集めた『常山紀談』という本が登場します。浅学にして筆者は読んだことがないのですが、そこにはきっとヒーロー幸村も登場しているのでしょう。 敗者側の豊臣氏への義理を通し、あっぱれな働きをして散った幸村像は、既にこのときには確立していたのではないかと(勝手な想像で)推測します。

大坂夏の陣が終わると、(1637年の島原の乱を最後に)世の中は平穏になり、文化も急速に成熟していった。関ヶ原から100年も経った元禄時代(赤穂浪士の忠臣蔵と犬公方・綱吉で有名ですね)には江戸幕府の隆盛はピークを迎えた。この頃になると、日本では朱子学(江戸幕府が正式な学問に採用しましたね)が定着し、その大義名分論が武士のものの考え方の基礎になった。・・・確か学校ではこんな感じに習ったと思います。そうすると、豊臣氏に義理を立て、自らの正義を貫き通した幸村は、江戸時代の武士たちにとってはとても尊敬できる武将だった、と推察できると思うのです。また他方では、江戸幕府にとっても、かつての敵とはいえ、幸村を称揚することは、その統治政策の面からプラスだったのではないかと思うのです。


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