2016年のNHK大河ドラマは、信州が生んだ歴史ヒーローの真田幸村の生涯を描いた『真田丸』に決まったそうですね。早くも真田氏の故郷の上田市などでは地元PRの取り組みが始まり、盛り上がりを見せ始めているようです。
このブームに便乗してという訳ではないのですが、しばらくお休みしていた歴史探訪ブログを再開して、「心に移りゆくよしなしごとをつれづれに」書いていこうと思います。
はじめにお断りしておきたいのですが、このブログでは地元びいきの宣伝をするつもりも、ましてや歴史的な検証などという大それたことをするつもりはありません。一人の長野県人として、真田幸村とそれにまつわる歴史について感じてきたことなどを書いていこうと思います。多少の歴史的事実の誤解や、解釈の大ぶれもあるとは思いますが(憤慨せずに)お読みいただければと思います。つれづれですので、できるだけ史料に当たらず、記憶だけで書いていきます。
さて、筆者は小学校5年生の頃に子供向け伝記『真田幸村』を読んだことがあります。今から約40年前ですが、1615年の大坂夏の陣で華麗に散った幸村の姿に胸が熱くなる想いをしたことを覚えています。大坂城を雲霞のごとく押し包んでいる敵の徳川軍に対して、まるで沖合に長く伸びた埠頭のような真田丸を足場に突撃を繰り返して敵を翻弄し、最後は幸村を先頭に赤揃えの甲冑の真田軍が敵陣深くまで食い込み、家康の本陣まであと一歩というところまで迫る。しかし、多勢に無勢、ついに力尽きて幸村はじめ真田勢は最期を迎える。これが子供心に「力強くてかっこいいヒーロー」幸村の記憶でした。
ですが、その後、長じるにしたがい、幸村のイメージが変化していきました。源九郎判官義経の史実から生まれた判官びいき(ほうがんびいき)という言葉がありますが、この言葉にある種の儚さ、不運な正義の味方のような感じを受ける人も多いかと思います。これと同じで、幸村については、儚くて弱々しいイメージだけが強くなっていきました。あるいは、真田家を絶やさないために、徳川方についた兄の信之と袂を分け、最期は華々しく散った悲劇のヒーローという印象のみが残るようになりました。もっと悪くいうと、幸村は所詮は信州の田舎土豪に過ぎず、日本の歴史を大きく動かした人物でもなく、判官びいきの日本人が過大にヒーローに祭り上げた幻想的人物なんじゃないかと思うようになったわけです。
ですが、その後、このイメージも大きく変わりました。自分が年をとって世間のことが多少はわかるようになったことも原因かもしれませんが、いくつかの本に影響を受けたことも否めません。
はっきりと記憶に残っているのは司馬遼太郎氏が書いた霧隠才蔵を主人公にした『風神の門』です。ご存知の通り、才蔵は真田十勇士の一人ですが、司馬氏は才蔵を幸村の家来というよりも敵、そして同志として扱っています。有能だけれども相当にプライドが高く他人に決して跪かない才蔵は、当初、幸村に敵対とまではいかなくとも決して味方ではなかった。しかし、接する機会が増えるにつれて徐々に幸村の人間的な大きさにのみ込まれていき、最期は家来のような働きをするようになった。このように筆者は『風神の門』を読みました。幕末に坂本龍馬から「大きな鐘のようだ」と評された西郷隆盛のイメージにかぶるでしょうか。幸村とはきっととてつもなく大きな人物だったに違いないと思うようになりました。もちろん、これは司馬氏の小説(つまり創作)に負うところ大なわけですが。
今でもこのイメージは変わっていません。
このイメージは、筆者の独りよがりかもしれませんが、本題はこんな感じで書き進めていきます。
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