軍師・幸村の大きさは?

By kakizaki, 2015年3月11日


昨年のNHK大河ドラマ『軍師 官兵衛』は黒田官兵衛を一世の軍師として描きましたが、戦国時代から江戸初期にかけて、名軍師として名を馳せたのには、竹中半兵衛黒田官兵衛、そして人によっては真田幸村を挙げるかもしれません。

498px-Takenaka_Shigeharu 515px-Yoshitaka_Kuroda yukimura
竹中半兵衛        黒田官兵衛        真田幸村

大坂の陣では、幸村は、そもそも豊臣方から軍師として参戦を要請されました。例えば、同じく豊臣方の塙団右衛門(ばん・だんえもん)のような勇猛果敢な突撃隊長のような感じではなく、知略に富んだ武将として、幸村は周囲から見られていたわけです。その頃は既に竹中半兵衛、黒田官兵衛は死んでいましたから、当時の日本で一番の軍師として幸村を見ていた人たちも多かったでしょう。

ところで、二刀流で有名な剣豪・宮本武蔵は、剣士としてよりも軍師として活躍したかったようですね。武蔵は関ヶ原の戦いで西軍に雑兵(ぞうひょう)として参戦し、敗戦の後は諸国を流浪しながら剣の修行に励み、あちこちの大名に仕官しようとしました。ところが、風呂嫌いの不潔さが災いしたのかどうかわかりませんが、武蔵の仕官は上手くいきませんでした。一説には剣士よりも軍師として召し抱えてもらうことを希望していたからというのですが、武蔵には軍師としての実績はありませんでしたし、その頃はもう大きな合戦は無くなっていたので、諸大名から「こんなヤツいらない」という感じで採用を断られたようです。
ですが、1637年の島原の乱(今の長崎県)では、武蔵は攻める側(江戸幕府側)にちょっとした軍師の感じで参戦したようです。よほど軍師として兵を動かしたかったのでしょうね。もっとも、敵が石垣の上から投げた石が当たって負傷し、特に何ほどの実績を上げることもできずに後方で療養せざるを得なかったようです。
武蔵は運が悪かったともいえますが、武蔵と幸村を比べると、軍師としての違いは歴然としていると思います。
そもそも幸村は、徳川方の大軍に立ち向かうために「死中に活を見い出す」感じで戦術を練り、死をも恐れずに戦ったわけですが、一方の武蔵は、勝っている方について兵隊を動かしたいといった「子供っぽい」欲求から軍師になりたかったように感じます。そりゃ駄目だよ、というのが筆者の感想です。

画像のライセンスPD-icon.svg


What do you think?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

This blog is kept spam free by WP-SpamFree.