皆さん、こんにちは。
今日は、直江兼続の主である『上杉景勝』についてお話ししたいと思います。
●上杉景勝
景勝は、謙信の甥にあたり、のちに養子となりました。
1555年、11月27日、上杉景勝は坂戸城で生まれます。
父は、坂戸城主の長尾政景、母は仙桃院です。
幼名は卯松、そして喜平次、顕景と称した。上杉謙信の養子になり、景勝となります。
謙信は景勝に「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」を与えている。この「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」は、1552年、謙信が23歳のときに後奈良(ごなら)天皇からいただいた位だ。これには賛否両論あり、「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)は官名であるため個人ではあげられない。景勝が後継者争いに勝って、あとからできたエピソードではないか」という説がある。また、反対に正式にもらった位という説がある。
景勝はすべての作戦を直江兼続に任せた。それほど、兼続をかっていたのだ。景勝と兼続は「水魚の交わり」といわれる。おなじみ、劉備玄徳と諸葛孔明のことですね。
水と魚はお互いに必要としたのです。
さて、景勝は沈着冷静な人で、戦いでは剛胆だったといわれている。『名将言行録』には、「前戦で戦闘が始まって矢玉が飛んで来ても、高いびきで寝ていた」と書かれている…。
戦場においては、景勝は冷静な判断をする1587年、新発田重家討伐のとき、家来が「近道を直進しよう」と進言した。しかし、景勝は「兵法には、『迂をもって直となす』とある」という。険阻な近道を行けば、不足の事態があるといって、わざわざ回り道を選ぶ。
そうすると、新発田軍は近道のほうの三淵でワナを仕掛けて待っていたのだ。
以上、謙信名将ながら、景勝も謙信ゆずりの冷静さを持っていた人物だ。
それではまた。
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