武田晴信は出家して信玄と名乗った!

By nagamo, 2007年2月7日


こんにちは!
皆様いかがお過ごしでしょうか?
2月に入り春が恋しい季節になってきました。
皆様のお住まいの地域はいかがでしょうか。
今週は3連休の方もいらっしゃると思います、ぜひ信州長野県風林火山の旅をご堪能してみてはいかがでしょうか。
さて、今回は【武田信玄(晴信)】についてよもやま話しをさせていただきます。
天文20年(1551)、晴信が31歳のとき出家して「信玄」と名乗りました。ちなみにそのとき、勘助も出家して「道鬼斎」と名乗っている。しかし、勘助は修行時代に既に出家しているとの説もあります。
信玄は出家のとき、作仏師に自分と同じ大きさの大仏を作らせ、自分の髪の毛を漆にまぜ、等身大の仏像の胸に塗りこんだといわれている。その後、着色をして、自分ソックリの憤怒明王像に仕上げました。
後に、信玄は戦場に600人の僧侶を従軍させたり、密教の祭りも数多く行っています。
この時期、晴信(信玄)は、本当に出家する気はなかった。31歳のときは「命名」されただけだ。
晴信が、自分で「信玄」と呼んだのは、第3回の川中島の合戦のあとだという。
易で「31歳は『対沖』」という。事故を戒めるときだそうだ。
ただ、本当の狙いは、甲州に来る一向宗、天台宗、禅宗、日蓮宗と多くの人を。坊主になることで味方につけようとしたところだ。
この話からも父信虎とは違って戦略的な武将だと分かりますね!
私は今週末、山梨県で開催されております「風林火山博」に行って来ようと思います。
また、ブログにてその様子を写真を織り交ぜながらご紹介したいと思います。
それでは!


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