軍師・幸村の大きさは?

By kakizaki, 2015年3月25日


戦争では勝つ方につくべきで、どちらが勝つかを見極めるのも軍師の大きな責任です。とすれば、幸村の場合はどうでしょうか?

少し長いですが、幸村と同時代人の直江兼続の話から見てみましょう。
直江兼続は、越後(新潟県)90万石、次いで豊臣秀吉に会津若松(福島県)に移封されてからは120万石の大領を有した上杉家の宰相(総理大臣)です。軍事だけでなく、外交、領内統治などすべての面で主君である上杉景勝を補佐した名宰相だったそうです。
直江兼続は、1600年の関ヶ原の戦いのとき、西軍の石田三成と手を組み、徳川家康と真正面から対峙しました。上杉景勝は家康と同じ五大老の一人で家康嫌いだったそうですが、それはともかく、戦乱のどさくさに乗じて、旧領の越後を取り戻すなどして領地を広げようとしました。関ヶ原の前夜、家康に対して「来るなら来てみろ!受けてたってやる!」と宣言した直江状がつとに有名です。結局は、関ヶ原で家康の東軍が勝利し、上杉家は米沢(山形県)30万石に移封されてしまうのですが・・・。結果論ですが、負けたという点から見ると 直江兼続のファンの方々には申し訳ありませんが、やはり大局を見る能力の点では、兼続はいまひとつだったのではないかと思います。
それに比べて、幸村の父の昌幸長男の信幸(信之)を東軍につかせ、自らは次男の幸村とともに西軍に味方して、世の中がどう変わろうと真田家は生き残る方針を立てました。これは大局観のなせる業といえるでしょう。もっとも、上杉ほどに大きな大名だった場合は、身内を分けて両方に味方するといったことは不可能だったでしょうが。
この直江兼続は名軍師としても知られていますが、比較して幸村はどうでしょうか?

ですが、幸村の方が軍師としては大きいのではないかと筆者は思うのです。これは幸村というよりも父親の昌幸の方かもしれませんが、時代の流れと敵味方の戦力全体を見る大局観に優れていたのは間違いないと思うのです。

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