昔の移動手段は?

By kakizaki, 2015年1月21日


400年前の長野県の人の移動手段はどんなものだったのでしょうか?

主な移動手段はやはり徒歩ですね。
江戸時代の東海道の旅の話をどこかで読んだことがありますが、当時は一日に30kmも歩けばいい方だったようです。今のように道は舗装されていないし、いたるところデコボコで、雨が降ればぬかるみだらけでしたから、さぞや歩きにくかったのではないでしょうか。その上、履物は草鞋(わらじ)ですし、足袋(たび)などはなく裸足で履いている人も多かったでしょう。また、旅の途中で病気にでもなったものなら宿場に長逗留(ながとうりゅう)せざるを得ず、路銀(ろぎん)は不足するし、悪くすればそのまま死んでしまうこともあったようです。
江戸時代には、長野県でもお伊勢講が流行して、一生に一度はお伊勢参り(三重県の伊勢神宮参り)に行くのが庶民の夢だったようですが、全行程を徒歩だったとしたら往復800kmで1ヵ月くらいは歩くわけですから、大変だったことは想像に難くありません。

それでも以上は江戸時代の話で、幸村の時代以前は今からでは想像を絶するようなものだったのではないでしょうか。日本の街道が整備されたのは主に江戸時代に入ってからですから、道といっても人がすれ違うのがやっとの道がほとんどではなかったでしょうか。馬ならやっと一頭が通れるぐらいですね。それでも馬に乗れるような身分の人はまだましだったでしょうが、当時の馬は今でいえばスーパーカー並みに高級なものだったでしょう。普通の人が所有するのは無理ですね。また、江戸時代のような宿場もほとんどなかったでしょうし、どこに泊まって旅をしたのでしょうか。山賊も多かったといいますから、本当に命がけの旅だったのだと思います。

馬といえば、群馬というだけあって、群馬県は馬の産地だったようです。それと隣接する東信(長野県の東。上田市も含まれます)地域も馬がまあまあいたようですね。長野県は理由は知りませんが、木曽馬がいたように結構な馬の産地だったようです。
馬そのものは、1千年前の平安時代から奥州が良馬の産地で有名でしたね。源義経が奥州の藤原氏のもとで馬に慣れ親しみ、騎馬隊で崖を駆け下りた鵯越(ひよどりごえ)の奇襲で平家を壊滅させたのは有名です。
また、京都辺りでは、幸村の時代には馬買い市があって、山内一豊が苦労して貯めた金で夫のために駿馬(しゅんば)を購入し、その馬が織田信長の目にとまって、一豊の出世につながったというエピソードも有名ですね。
もっとも、当時の馬は今のようなサラブレッドではなく、背丈が低い、今でいうポニーのような感じでした。

河川交通もあったのではないかという人もいると思います。確かに、江戸時代には塩を日本海側の新潟県から川を船で遡って長野県に運ぶとか、稲荷神社参りで茨城県の笠間稲荷に参るには埼玉県まで行けば利根川の水運を利用できたとか、大坂と京は淀川を往復する船が便利だったとか、江戸時代ならば河川交通もあちこちで整備されていたと思います。ですが、幸村の時代だとどうでしょうか。

キャッチ画像はWikipediaの画像を利用しています。
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