どんな組織だったのか?

By kakizaki, 2014年11月28日


作家・堺屋太一氏の著書『組織の盛衰』によれば、組織、特に軍事的な組織については、その秘匿性という性質上、ほとんど記録はないそうです。
ですが、堺屋氏は書いています。20年も前に読んだので、内容に余り自信はありませんが、概ね次のような感じでした。

戦国時代までは、各地域の豪族たちは日頃は自分の家来たちと一緒に自領で暮らしていて、いざ合戦の陣触れがかかると盟主の下に駆けつけて戦ったそうです。大体は百姓が本業で、合戦は必要な時だけというのが当時の武士の状況だったわけです。武田信玄でも上杉謙信でも、そうした各地域の豪族たちから祭り上げられた盟主に過ぎず、部下とはいえ豪族たちに余り無理はいえず、田植えや稲刈りの時季にはできるだけ合戦を控えました。いわゆる兵農一体ですね。
ところが、織田信長の登場で状況が変わります。信長は、それまで各地に暮らしていた配下の武士たちを城のすぐ近くに住まわせました。百姓なんかはやらせず、戦争に専念させ、田植えや稲刈りの時季だろうとお構いなしに一年中合戦できる集団を創りました。兵農分離ですね。そして、城下には楽市楽座(税金ゼロのタックスヘブン)を設けて諸国から商人たちを呼び寄せ、家来たちには現金で給料を払い、家来たちはその金で商人たちから衣食住や合戦に必要なものを買うというシステムを創りました。
さすがは一世の革命児である信長といいたいところですが、敵の大名たちにとってはとんでもないことですね。農作業のある時季は休戦するのがそれまでの慣例だったのに、信長は相手が稲刈りをしていても攻めて来るわけですから。
また、信長は「黒鍬組」という、今でいう工兵隊(自衛隊でいえば施設科)も創りました。砦を築いたり、川を堰き止めたり、主に土木を専門にする部隊です。すごいですね。ほとんど現代の軍隊のような機能集団をつくったのですから。他の大名が信長に負けるはずです。(余談ですが、当時、近江の国で黒鍬組だった人が江戸時代初期に信州に移住して来たそうです。その子孫が筆者の近所(千曲市)に住んでいて、一年に一回ほど酒席でそうした話を聞きます。近江といえば信長の本拠地の安土城があったところです。ひょんなところで戦国時代と現代がつながるものです)。

さて、幸村です。
信長の最盛期の頃、幸村は10代後半でした。信長亡き後、豊臣秀吉は信長の組織を真似しましたから、幸村は10代から約30年間、信長の組織を見聞きしていたはずです。父・昌幸から教えられたかもしれません。そして、聡明な幸村のことですから、信長の組織についてよく理解していたでしょう。
しかし、幸村は信長の組織を真似したでしょうか?恐らくは真似したかったけれども真似できなかったと筆者は思います。なぜなら、信長の組織をつくるためには、軍事的な組織だけではなく経済の仕組みも変える必要があり、そのためには強大な力が必要ですが、残念ながら幸村にはその力はなかったと思うからです。(もっとも、真田紐の販売による収入がありましたから、小さな「信長の組織」はつくっていたかもしれません)。

江戸時代に入ると、武士は城下町に住むことが普通になり、多くは農業から離れます。各藩では信長の組織が当たり前になるわけです。ですから、幸村は、組織の大きな変遷があった時代の過渡期に生きていたと思うのです。

※リンクページはWikipediaを利用しています。


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