上田原の戦いにて討死にした【雨宮刑部】

By nagamo, 2007年6月27日


皆さん。
こんにちは。
いかがお過ごしでしょうか?
週末は天気が崩れ、雨がしとしと降っていましたが、ここ連日は暑い日が続いておりますね。
沖縄は最高気温32℃!暑いですね!
信州長野県でも27℃~28℃という予想気温ですが、湿気のジメジメさもあり、なんか暑苦しいです。
“カラッ”とした暑さが待ち遠しいですね!
さて、今日は、前回の【板垣神社】の近くにございます、【雨宮刑部(あめのみやぎょうぶ)】のお墓をご紹介したいと思います。
雨宮刑部のお墓
その前に簡単ではありますが、上田原の戦いにおいての【雨宮刑部】のご紹介をしたいと思います。
上田原合戦のあらまし


天文十七年(1548)二月甲斐の武田晴信(後の信玄)は、大軍を率いて、小県郡に攻め込んだ。地元葛尾城主村上義清はこれを迎え討ち、同月十四日この地で激しい合戦が行われた。この戦いで武田軍は破れ、重臣板垣信方・甘利虎泰・才間河内守等討死、晴信も傷を負ったが、村上軍も雨宮刑部・屋代源吾・小島権兵衛等が討死し、決定的な勝利を得ることができなかった。
上田原の南方に望む倉升山一帯には、物見山・合図山・兵糧山・御陣ヶ原・鉦ヶ窪・味方原等武田軍の布陣を示す地名があり、転じて北西には村上軍が陣をすえたと伝えられる天白山があり、下って物見塚・産川崖上には三兵・村上の旗が立てたと言う旗塚の跡等あり、共に今も小字名として残されている。
雨宮刑部のお墓
【雨宮刑部】はもともと川中島北部の豪族だったそうです。
雨宮刑部のお墓
いかがでしたでしょうか?
上田原合戦では、両軍共に、重臣級の家臣がたくさん討死にしております。
【武田晴信】はこの戦いをきっかけに、合議制を強く重んじるようになったといわれています。
今後のNHK大河ドラマ「風林火山」も見ものですね。


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