昔のコミュニケーション方法は?

By kakizaki, 2014年10月29日


今から400年も前の幸村の時代には、人々はどうやって意思疎通していたのでしょうか?

幸村の時代から下ること約250年後の幕末(1860年頃)でさえ、志士たちは隣りの家どうしでコミュニケーションするにも手紙をもってしたといいます。 出身地で言葉がかなり違うので、口頭だとお互いに何を言っているかわかりづらかったからだそうです。確かに現代でさえ、濃い薩摩弁津軽弁で話し合ったら、お互いに外国語をしゃべっている感じで意味不明になるでしょうから、幕末ならなおのこと無理もないと思います。それなら、幕末よりもずっと昔の幸村の時代ではどうだったのでしょうか?

筆者は、意外に幸村の時代は口頭でも意思疎通ができた、幕末よりもできたかもしれないと(勝手に)思いたいところです。なぜかというと、戦国時代や江戸初 期は日本国内の人の移動が結構盛んだったので、人交わるところ言葉も交わるわけですから、現代の人間が想像する以上に言葉は共通化されていたように思うか らです。高野聖(こうやひじり/一種の物乞いで全国を歩き回っていた)なんかもいましたし、武士も関東から九州や東北に移動したりしていたわけですから。逆に、江戸幕藩体制下では260年もの長い間、300近くもの藩が存在し、それぞれに一種の鎖国状態を続けていたので、人の流動性に乏しく、言葉も地域色を強めていったと思うのです(江戸時代も結構人の移動はあったという話もありますが)。

とはいえ、仮に幸村の時代は後世の江戸時代よりも口頭で意思疎通しやすかったとしても、当時のコミュケーションは現代に比べれば相当に困難だったと思いま す。テレビやラジオはもちろん無かったし、本だって一般には寺の経本ぐらいしか無かったはずですから、少なくても話し言葉は地域ごとに大きく異なっていた はずです。(書き言葉はわりに普及していたと思いますが)。標準語が日本で成立するのは明治も後期になってですから、幸村の時代にはいかに言葉の壁が高 かったかは想像に難くありません。

ここで想像を膨らませてみると、言葉の壁が大坂の陣で幸村を豊臣方の中で孤立させたとはいえないでしょうか?
「ここが大坂城だす」(大坂者)、「ここが大坂城どすえ」(京者)、「ここが大坂城だぎゃ」(尾張者)。幸村なら「ここが大坂城???・・・ずら(?)」。豊臣方の中心の多くは関西人ですから、言葉一つとっても、幸村は疎外されていたのではないでしょうか。


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